経営コンサルタントとして生きる


中学時代、父親の会社が倒産。その後、親戚に預けられる。その頃から会社を良くする仕事をしたいと何となく思い始める。身勝手ではあるが、私にとっては経営コンサルティングは会社の医者のようなものなので社会貢献と位置付けている。

高校卒業後、靴の販売会社に就職。お金が無かったので走って会社に通う。僅かなお金が貯まり、その範囲内で行ける大学を探し、運よく入学。入学金が払えたが授業料は払えず困窮する。大学1年の夏、キャンパスで倒れる。栄養失調だった。1か月入院する。入院生活は楽しく、大部屋で私だけが豪勢なメニューだった。

港湾労働、雀荘の店員などしながら卒業を目指すが、実家もない学生にはまともな就職ができない。興信所が調べる。そういう時代であった。会社を良くする仕事をしたいのでサラリーマンになるつもりはなかった。港湾労働は非常にきつかったが楽しかった。社会を支えている底辺を知ることは視座の土台となっている。

学者になれば会社を良くする仕事ができると思っていた頃、大学院の経済経営部を新設する大学があると知り、2名枠の募集であったが、受験する。何故か運よく合格する。

ところが学者というのは会社を良くすることはしないと知る。そうではない方もいるかと思うが。悩んでいる時に、面識もない教授が「お前は日本能率協会が向いている」「俺が紹介状を書いてやろう」。日本能率協会は商工省時代の研究機関であり望んでいる所でもあった。

さっそく面接に行く。丁度、役員会らしきものをやっていて、その場で面接。「あんな奴の紹介状を持ってくる奴はろくでもない」とかいわれたが、その場で合格となった。明日から来いといわれ、「授業がある」というと、「大学院の勉強なんぞ何の役にも立たん。現場に出ろ。」「明日来れるか」…「行きます」。その後、論文はきちんと出し、無事学位は取得する。当然であるが、修了式は出ていない。

風呂なし、トイレ無しのアパートに住み続けながら、がむしゃらに仕事をし、母へ仕送りを続ける。10年後、意識不明で倒れ、復帰に半年を要する。会社との方向性に違いを感じ、約20年務めた会社を断腸の思いで辞める。その後、雇われ社長をするが、会社を良くするプロフェッショナルを目指すため退職。40歳半ばであったが、これまでの海外プロジェクトの経験などから日本に居ても面白くない。ニューヨークで起業する。無謀と言われたが、無謀でない挑戦などない。信念に反する仕事、プロフェッショナリティを追求できない仕事はしたくない。

これまで複数の大学院で教鞭を執らせていただいた。いい加減なことはいえないので、アカデミックの勉強もした。亡き師匠がいった。「理論と実践を繰り返して信念は生まれる」。その通りだ。

60歳を過ぎ、大企業ではなく中小やベンチャーの支援をしたいと思います。現在は、そうした会社のご支援をさせていただいている。ちなみに大企業エリートには中小企業は務まらない。

気づいたら黄色の介護者保険証が送られてきた。高齢者になっていた。師匠がいった「老いは人それぞれだ」。これからもプロのコンサルタントとして粛々とカタナ(腕)を磨き、会社を良くすることに尽力しよう。(宮川 雅明)

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